名月姫に関する伝承
悲運の姫君、名月姫に関する伝承です。
尼崎と能勢の2個所に伝承があるのですが、かなり両者で細部の話が違います。
 
尾浜八幡宮  尼崎市の中心部を流れる庄下川沿いに尾浜八幡宮がある。この境内の一角に名月姫の供養塔であると伝えられる石塔がある。石塔自体は鎌倉後期の作であると推測されている。

 名月姫の伝承その物は浜本家や三松家に伝わっているが、浜本家に伝わる「摂津国河辺郡御園荘尾浜村円福寺大日如来之来由」のほうがより史実に近いと考えられている。

名月姫伝承(尾浜に伝わっているもの)
 平安時代後期、尾浜近辺の領主であった刑部在衛門尉国治は家も富み、人望もあり、欠けたことのない身分であった。しかし肝心の子供ができないので鞍馬山にこもって願をかけたところ、久安元年11月3日夜に多聞天の夢を見、翌年8月15日の明月の夜に女の子が生まれ、彼女を「名月姫(明月姫)」と名づけた。この子は才色兼備で孝心も深く、楊貴妃のようであると賞された。

ところがある日……
 丹波国の能勢小川庄の住人、仁和寺の蔵人包平の嫡男、家包(いえかね)が野遊びのさい、偶然名月姫を見掛けて一目ぼれし、当時14,5の姫を能勢に連れ帰ってしまった。父国治は悲嘆に暮れ、四方八方を探し回った。その頃平清盛は神戸の福原を新たなる都と定め、そこに30名の人柱を立てることとしており、国治は姫を捜して西国行脚の途中に兵庫で、その人柱の一人として捕らえられてしまった。
 家包、名月の夫婦はそのころとある老人が枕元に立ち、この事実を告げる夢を見た。夫婦は驚いて兵庫に駆けつけ、親子の対面を果たしたあと、村へ戻って寺を建立した。夫家包の死後、名月姫は尾浜にさらに大日堂を建て、亡き夫や父の菩提寺とし、みずからもここへ庵居したという。この大日堂のあった場所に現在の尾浜八幡宮がある。戦前は本殿とともに大日堂も並んで建っていたそうだ。
前述の通り現在尾浜に残る供養塔は鎌倉時代末期の物で、伝承の自体は平安時代末期の物。両者には150年ほどの隔たりがあり、伝承と石碑の関係は良く分かっていない。しかし鎌倉末期の宝篋印塔は県下でも貴重で、尼崎市内では最古の物といわれている。
尾浜の名月姫供養塔
能勢の名月姫墓 明月姫伝承(能勢に伝わるもの)
能勢の明月峠にも彼女の墓があり、こちらには他に、父国治、夫家包の墓もある。こちらの伝承は尼崎の物と細部が異なっおり、姫は御園荘領主、三松刑部佐衛門国春の息女で、明月のように美しいから名月姫と名づけられたとなっている。子供ができないから大日如来へお参りして授かったなど、そういった点では共通点が見受けられる。

姫は大きくなって能勢の豪族、能勢氏の一門の柏原城主、蔵人家包へと嫁入りしたが、あまりの美貌に噂が広まりって平清盛の耳に入り、側女に召し出せと命令、泣く泣く家包はしたがったが、平清盛の命令で神戸の福原へ移動する途中、貞節を守るために能勢の山中で自害したと伝えられている。

自害した場所は後に明月峠と名づけられ、そこに前述の通り、名月姫ほか3名の墓がある。
尼崎市内には他に、寺町に国春夫妻の墓が如来院にあり、摂陽群談に「国春夫婦塔、如来院境内にあり」として、「国春は神崎の産、三松刑部佐衛門尉と号す」とある。また川辺郡談にも「三松国春、神崎の人、刑部左衛門尉永観寛保年代(平安後期)名族地頭たりしがその女名月姫才色兼備、国春の墓、昔時、神崎村釈迦堂いありしを、別所村如来院に移せり」とあり、高さ6尺5寸の笠塔婆が建ち、上に地蔵尊が刻まれ下に男女の像があり、両親の33回忌にその子の姉弟が建立したとある。しかしこの建立も名月姫の伝承とは100年以上の差がある。

しかし国春が神崎の人であり、地頭として荘園管理に携わり、領主として近辺を治めていたということから、尾浜や七松には深い関わりがあったことが考えられる。深い仏教信仰の霊異が名月姫物語を生み出したとも考えられている。

しかし管理人は、これだけ距離の離れた場所に登場人物の変らない伝説が残っているということは、多少史実も含まれるんじゃないかと考えているんだが……
現在の明月峠
取材車両:91Cannondale M Custom/91DT200WR
撮影器材:CASIO QV-11
資料提供:尾浜八幡宮、能勢町役場
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